台湾と大阪、2つの地元を持つ日清食品の創業者「安藤百福」の半生

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2017/09/08

しかし、それでも不屈の精神は消えず、食糧難に喘いでいた日本を救いたいとの一心で、今度は独学でインスタントラーメンの開発を進めます。部下もいない、たった1人からの挑戦でした。しかも百福は麺については素人ですから、本当に何もないところからの出発だったのです。

試行錯誤を重ね、ついに油熱による乾燥法にたどり着きます。前述したように、台湾では「意麺」がインスタント・ラーメンのヒントになったと言われていますが、百福の自伝によれば、妻の揚げた天ぷらで製法を思いついたと述べています。

こうして1年の試行錯誤を経て誕生したのが、「チキンラーメン」です。チキンラーメンの手軽さとおいしさは大好評で、しかも鶏ガラから取ったスープは栄養もあり、当時の食糧事情から、厚生省がチキンラーメンを妊産婦の健康食品として推奨したことから大ヒットします。

その好評を見て、追随する業者が多く出てきました。粗悪品や模造品の懸念から、安藤はチキンラーメンの商標や特許を申請・登録し、会社や商品の信用を守ることに努めました。

しかし、1964年には一社独占をやめ、日本ラーメン工業協会を設立し、メーカー各社に使用許諾を与えて製法特許権を公開・譲渡しました。その理由として、「企業は野中の一本杉であるより、森として発展する方がいいと思っている」という言葉で語っています。

また百福は、偽造品や粗悪品の横行を阻止すべく、食品業界の先鞭を切って「製造年月日表示」を始めたほか、インスタントラーメンのJAS規格の制定に尽くすなど、一貫して業界全体の品質の維持・向上に努めたのです。

チキンラーメンはアメリカにも進出、ここでも大きな人気を博しましたが、百福がアメリカ視察をした際、アメリカ人がチキンラーメンを割って紙コップに入れ、湯を注いでフォークで食べているところから、日本のようにどんぶりのない国でも簡単に食べられるカップラーメンを着想し、1971年に世界最初のカップ麺カップヌードル」を商品化。

1972年の浅間山荘事件で機動隊員たちがカップヌードルを食べている映像が流れたことから、火のついたような大ヒットになり、やがてこちらも世界的に普及したことは誰もが知っていることでしょう。

安藤百福は2007年1月に97歳で死去しましたが、アメリカのニューヨーク・タイムズも社説でその死を悼み、偉業を讃えました。


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