6千人のユダヤ人が上陸した過去も。鉄道と港の町「敦賀」の意外な歴史

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2018/02/07

前回の記事「敦賀市と聞いてピンとこない人に知ってもらいたい、福井県敦賀市のトリビア」では、新幹線「金沢・敦賀間」の延伸に向け、いまじわじわと注目が集まっている敦賀市の観光スポットを紹介しました。

実はこの敦賀市には、1940年から1941年にかけて、歴史に名を残した外交官・杉原千畝によって助けられた約6千人ものユダヤ難民が敦賀へ上陸したという歴史があります。鉄道と港によって栄えた町、敦賀市の意外な歴史を紹介します。

鉄道と港の街が歴史の舞台、敦賀市

大和田銀行は現在、敦賀市立博物館に

敦賀駅前からのびるシンボルロードに設置されている『銀河鉄道999』と『宇宙船艦ヤマト』の像が象徴しているように、敦賀は鉄道と港によって栄え今でもその歴史を大切に守っている。その一端を紐解いてみよう。

敦賀は古代から海運が盛んで、朝鮮半島や中国大陸の玄関口でもあった。江戸時代には北前船の発着点となり、関西方面と北海道方面の交易になくてはならない交通の要衝であった。敦賀では船荷問屋が北前船を所有し、多くが成功を収めた。その1人が大和田荘七(おおわだしょうしち、1857ー1947)だ。北前船で財をなした大和田は1892年に大和田銀行を設立した。

大和田荘七の像
大和田荘七の像
 1884年には敦賀と長浜間の鉄道が全線開通し、鉄道と船での物資輸送の拠点として栄えたものの、富山まで鉄道が延伸されると鉄道が物資の輸送の中心に。そんななか、港が危機に陥らないよう、大和田は敦賀港を国際貿易港にするよう懸命に働きかけた。その努力が実り、1899年に敦賀は国から開港場(国際港)の指定を受けることができた。

指定貿易港になったからには一定の貿易額を達成しなければならない。大和田は国際貿易港を存続させるため、自ら貿易会社を立ち上げ、中国から大豆や豆粕を直輸入し、輸入実績を残した。

1905年には敦賀とウラジオストクを結ぶ直通定期連絡船が就航。ロシアとの交流が活発になり、ロシア人観光客が敦賀を訪れてもいる。大和田は敦賀にロシア語を普及させるため、ロシア語教育の導入運動も行ったという。ソースカツ丼で知られる「敦賀ヨーロッパ軒」にはロシア語の看板が残っている。この街がいかにロシアと交流していたかを物語る証だ。

敦賀ヨーロッパ軒のロシア語の看板
敦賀ヨーロッパ軒のロシア語の看板

先見の明のある大和田が尽力したおかげで敦賀港は発展した。国際港の礎を築いた彼の設立した大和田銀行は現在、敦賀市立博物館となっている。隣接する「みなとつるが山車会館」の前に立つのが大和田荘七の像だ。

博物館1階には銀行のカウンターも現存する
博物館1階には銀行のカウンターも現存する

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